バカはバカだねぇ~
主語としてのバカ(S)と述語としてのバカ(P)は同一ではない
まず第一に指示範囲の違いがある
バカ(S)⊃バカ(P=s)であり、等しくなくよってトートロジーでないことを指摘しなければならない
前者のバカは大きな主語、それはつまり確定したバカだけでなく一見バカのようにみえるものやそこの主体を取り巻く環境でバカと扱われているがバカでないかもしれないものを集約し一面化した語としてバカが言われている(記録された(記録されることが意識された)パロール)
この時、バカ(S)は指示語の機能も保持している
バカの具体的内容はその文脈(配信内容)の前後関係がなければ知ることができない
バカ(S)はバカである様態や振る舞いを示していない
それはバカ(S)を処理するバカ(P)が決定している
可能性のバカから現実態のバカヘ
しかし、具体性を帯びると現実態のバカは既にバカであることが確定しているようにみえる(レトリックの因果性)
例えば、この動画におけるウナちゃんマンのコレコレの批判は
1.内面をアピールしながら外面や体裁がどう見えるかを気にするコレコレを皮肉を使い(モノマネ━カリカチュア)それを指摘する
2.社不=アウトサイダーであるのにも関わらず下と見做してた配信界にいることを正当化しながら(あえて配信を選んだと)下を作りそれを見て安心するところ
選択行為に対する二重性のバカ(ニコ生に参加し配信していることの社会的不利益がありながら大手企業の内定を自慢し自身の価値づけのために使うこと、それを理解しながら行っていても価値づけが無意味であるためにバカとなり理解して行っていないとしても自明にバカである)
このために内定━入社は確定していないがバカは確定している
言語機能上のバカと反対の方向性を持つ当人の行為自体のバカ
具体的バカは述語論理に確定的情報に近づくため必然的である
これは言語上(あるいは統語上)の作用と現実が平行関係にありそれらの関連性は偶然発生するが因果の一要素として扱われる
それはバカの反復運動∧作用である