懐疑的提言を一切認めない政治イデオロギーの言説=ホロコースト産業の自ら有意義を捨てる自傷的無意味さ

https://note.com/ms2400/n/nab96e71d65f1

比喩や皮肉がまた目の敵にされて自分たちの権力の誇示に利用されているのを見た

わたしは、否定論者ではないが、このヒムラーの演説のみからユダヤ人の生命的な絶滅の意図を読み取るのは難しい

明らかに生命を対象として一人種=ここではユダヤ人を指しているのでなく、ユダヤ教の精神性を上げてそれを絶滅する必要があると唱えていると解釈するのが自然だと思われる

なぜなら、一個人に対する生命の毀損が目的ならば病原菌に例えるパートの親衛隊員に感染するという文は単に現実の誇張というものではない

というのも、生命的絶滅を目的としているならば現実的にありえない箇所になるからだ

そして、否定論ヘの否定の根拠として挙げる指示系統上の混乱がこれを原因にまた発生しかねないために同様の理由によって絶滅=生命の消滅という解釈が否定されてしまう

また、辞書あるいは他人(ドイツ語を母国語とする人々)に依拠してその意味を決定しているが、必ずしもその組織独特の言語の使い方が他の場面での日常会話でその語を使う時と一致するわけでもないだろう

しかも、演説は政治的文脈によって解釈されなければならないため、特殊である

演説で比喩を用いる際、レトリック過多な誇張法はよく使われることは世界全体でみられることである

権力者に対しての個人的演説が死活問題に発展する立場にあった諸子百家の著書を参照してほしい

誇張法を使用していない論法を見つけ出すことの方が難しいだろう

現代中国作家 閻連科はそれを踏まえ現代中国の風刺や批判にレトリックを援用している

ヒムラーの演説に近い状況での例を挙げよう

例えば、奥崎謙三政見放送で殺したいを連呼する場面

大カトーが演説の際に文脈から孤立させキャッチフレーズのようにカルタゴ滅ぶべしと語尾に付け加えた事実

自衛権を行使して敵対勢力に先制攻撃することを告げたブッシュ・ドクトリン

これらをわれわれは実際に虐殺する意志があると演説だけで捉える事ができるだろうか?

本来の目的や自分たちの実際の行為を隠すことを単に混乱を助長するだけで不条理で誰も選択しない戦術だというが演説は多かれ少なかれ意図を曖昧にしぼかし隠すものである

リッペントロップの演説でドイツの軍拡は敗戦の劣等感から抜け出すために行っているもので戦争を準備するためのものでないと述べていたが、それを字句通りそのまま捉えるのか?

一方で字句通り受け取り、その一方でそうすることを拒否する基準が示されていない以上主張していることは議論を目的としておらずそれこそ馬鹿げているとしか言いようがない

その基準を述べてみよう、それは言語と指示される現実の事物は相互に関連して意味を決定している

それから切り離した解釈を事実とするのは不可能だろう

そして、その語彙の辞書的なフォーマットの意味(辞書に記載される内容は同じでも)その語を使った時の捉えられ方は時代や文化圏によって違ってしまうだろう

実際にリンク記事ではサッカーを例に上げて昔は自死自殺点と表現されていたものが、オウンゴールと呼ばれるようになったと指摘している

それは語のテキスト外の影響の感受性がその文化圏で変わったことを意味する証左であるだろう

それらの時代間文化間の差異は最早テキストとしては記録する事が不可能なのでわれわれは知ることができない

知ることができないことを根拠やデータによって(そしてそのデータは記載者の権力関係━その立場を危うくする主張はしようと思わないだろう━やバイアスによって結論ありきの論理で配置されている)その意図の当時の一般的な受け取られ方を表現した場合、フィクションとしては興味深いものの事実とするには不充分だろう

また、本文を読解しても、1.目的意識や精神性、考え方の基準はコミュニケーション(近くで生活する上で被る影響も含め)や言語によって伝播可能だと考えると2.生命を根絶やしにしてもナチスの考えるユダヤ精神を根絶するのは不可能だろう

よって選択しうる手段の一形態であることは否定できなくともそれが目的であると指摘することはできない

文が一階述語論理に沿って構成されていないために、ユダヤ精神の手段を全て特定し数え上げることは出来ない

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演説自体がレトリックを一部でも使用していることを認めてしまうために、(リンク記事は一種の議論であるが)記事全体が馬鹿馬鹿しいものになってしまう

つまり、一方で比喩や皮肉、御為ごかしが込められた言説は参考資料にできないと認めつつ、演説を自身のバイアスを含んだ解釈にとって確かな資料として扱ってしまっているのである

以上からリンク記事はThought-terminating clichéの論説に終始しているのである

ナチスと同様の手法を用い社会に属しながら個人として生きることを否定し構成集団を馴致させる新しい中央集権機構を作り上げその存続のために、そして批判を躱すために彼らはナチスを利用し続けるのである

人為的な局地的大量死のみならず、人間のあらゆる行動意思決定は環境に敗北されられ続ける

人間は意志以外の何物も所有していないが人間の浅はかな意思や言葉、言葉遣いによって現象が発生するわけではない

メニエール病を擁護しながら鬱を詐病と言い攻撃するダブルスタンダード〜ネットのアドリブ的世論による無脳ゾンビの生産/再生産

これから生まれる鬱を患った人間にも適応させるために全般的に鬱を詐病もっと言えば甘えとして扱うがそれは狂人の現代の社会的機能による

まず狂人は病気であり隔離されなければならないと考える。これは詐病として扱われている場合でも維持されそう扱われ続ける

しかし、その解りづらさ、病因の特定や症状と仮病の判別の困難のために本当の意味で病(身体障害)では無いと見做され、自分たちの正常性の参照点として扱われる

野田草履は花粉症と類比して説明する

━━━自分が花粉症に苦しんでると想像して

くしゃみや咳、涙目は演技であり、仮病だと詐病だと言われたらどう思うと

これら”身体”のカテゴリーに入りながら同様の困難を持つアレルギーや機能障害は嘲笑される精神の病と深刻なものと扱われる肉体の病との区別を曖昧にする

メニエール病は機能性疾患(内耳(これは身体の位置の認識━━平衡感覚を司る)がリンパ液等体液によって圧迫されるために)であり神経系(神経伝達物質の不均衡(SSRIのような神経伝達物質の再取り込みの選択効果を持つ薬))の疾患であると言われる双極性障害ADHDと同様その症状は流動的で特定困難であり、それが不理解を生んでいる点

そして、本来自己申告ではわからない。これを良いことに医師はメニエール病の診断を乱発する場合もある

ADHDや鬱も同様の診断上の問題を抱えている

リスナーは既に鬱病のトポグラフィー検査でそれを知っているというアピールをしたにも関わらず、なお詐病として非難する

ニンポーのメニエール病芸はまさしくそれらを写し鏡として風刺している

しかし、風刺は敵対的行動とも取れ同様か、それに輪をかけて幼稚であるリスナーが取りうる主な手段である通報には非対称性があるために内実を全く反映させず実行力を持つ

それは運営や日本難病・疾病団体協議会(以下JPA)、通報者として主な母体であるリスナーの利益の一致により批判性を欠き、正当性を欠きながら正当化される(偶発的政治腐敗)

通報スキームともいえる鉄のトライアングルは

運営━━雇用した従業員でなく個人事業主として補償や擁護にかかるコストを削減しながら利潤は貪れる

コンコルド効果は多額のコストを準備高として投資するために発生する。裏がえして言えば低コストであれば後腐れないと考えてすぐ切れるということでしかも配信者はかまってもらうために過激な発言を良くするため炎上商法のように人を集め集金しリスクも配信者と一緒にカットしなかった事にしやすい、次から次に投げ銭を可能にするフィールドを用意することで利益を享受する事ができる

JPA━━ある種それら難病患者の意見を代表しそして代弁する組織であり、それは会長の一存で決定される。そこで重要なのは意見を総合しわかりやすく伝えることでなく、政権にも関わりある圧力団体としてより権威性を高めることである。あそこで語られることは差別される弱い立場の被害者の擁護等ではなくそれらセンシティブで人目を集めやすい病気というスティグマを利用して自身の意見を通すこと=権力の増大である

それは団体の権力の増加が難病指定された弱者のために必要であるという事由により正当化されるために巧妙である

圧力をかけ自己批判を促し、議論には全く応じない強権的態度や会長の一存で決定したことを”難病患者を代表する”団体として表明する点からそういった私物化を窺い知る事ができる

つまり、難病患者を利用ししかも世相の反映としてより創造的に一目でわかるように表現するのでなく、あたかも患者=弱者のためのように振る舞いながら(団体の構成員は弱者だけではないが弱者にスポットを当てる事により弱者を盾にする。何から何まで弱者に依存している)その実、個人的権力の行使であることを隠そうとする。それ故メニエール病芸などより卑劣で悪辣な意思表明を行っている。

自分の団体が許諾する方法でしか病気であると伝えられないと考えるJPAの傲慢さ、それは偏見の再生産(しかも偏見を打破するたびに変形し維持されつづけるウイルスのような偏見)がその団体が真に必要としているためであり、

それは団体の真の目的が偏見の撲滅ではなく影響性の保持のためであり、それ故に差別や偏見が必要であるからなされるのだが

自ら表立ってそれをすればその団体の存在意義が疑われるため、団体が差別の助長と考える発言者の意見を本来の意味から逸脱して拡大解釈し全く話題になっていないことに過剰反応しあたかも大事件のように扱うことによって二次被害を発生させつつ、影響力を拡大しているのである

そういったJPA側の利益

リスナー━━リスナーとは基本的に乞食である。それが無意識的か意識的かに限らず。説明すれば、誰かの損は誰かの利益である。リスナーが行う徹底した二面対立化は自分が帰属していると思っているアンチとしての立場と配信者という単純化でもあり、配信者の損益は即時的に自身の利益と考えるほど短絡的である。しかし、乞食行為の指摘をイデオロギー的武器として使っている以上乞食であることは否定しなければならない。だから、そこで発生する利益の流動について触れられず、具体性の欠いた空虚な精神論の神秘に行き着くのである。(あるいは、全く事実ではないか確認不能なレッテル貼り━ネトウヨ・チョン・ガイジ・犯罪者予備軍・不審者や効いてて草・必死だな等のスクリプトや連投荒らしレベルの定型文)

精神病を否定しながらそれより曖昧でスピリチュアルな精神論を唱える矛盾が彼らの知性の限界だが、その影響は他の言説にも現れる

それは新興宗教セミナー、ネズミ講のような支配的な環境の生成である

詳しくいうと普通や世間、周りの目、空気という言葉を使いそれがあたかも自分たちの立場が一般的であり、あなたの行動は間違っているかのように設定するが、それ自体が虚構である

それは戦略的である。配信者の言う事全てに反対し、その理由を発言内容や対話の中の文脈からでなく、世間的慣習から導き出し、例え前言った意見と反対の意見(これは反証と修正のプロセスにより自然な意見の変容である)を言ったとしても否定するのである

これはその対象をダブルバインドに追い込み疑似的に統合失調状態にする事ができるためよく採用される

非倫理的手法を取りながら倫理的コードに載せてしばしば配信者を叩く矛盾

また、匿名からなされる意見はその自分たちが捉える帰属集団からの逸脱を許されないのにも関わらず(粉界隈はそれを自我を出すと言い該当する人物を徹底的に攻撃するこれは暗黒脳にも見られる)、その場で匿名として発言するために確認不可能である受け手と言い手の不一致を反論として主張すること

個人の意見が即座に締め出され差異化されるため個人的見解が不可能なのにも関わらず、受け手と発言者の不一致が成立するという矛盾

挙げればきりがないが、理性や意思を否定し畜群本能に従う彼らの行動の評価原理は結果論に基づき原始なき現代で突出して原始的である。人は自分の能力以外でもたらされた利益も自分の能力によるものと過信する(モノポリー実験参照)そういったバイアスに対してメタ評価が為し得ないために原始的なのである。よって実際には利益となってなくとも魔術的思考により利益になると思い込む

それらに対等に機能する利益相反する団体や役割区分が存在しないために社会に先立って存在する弱者は社会的にも弱者となり搾取され続ける

彼らの正当化は常に後付であり、自分たちの立場はその内容に関係なく常に正しいという教義に従って言語行動を行い、攻撃を行う

それらは批判可能性を持っていないが故に現代の大衆のアヘンであり、勝ち続けてると盲信し続けるために報酬系が強化され、その行動に対する依存度が増し視野がそれにつれて狭まっていく

それらが習慣化した人間はその教義が自分で編み出したものでなく、他者のカテドラルから産み出されている事に気づかず搾取され続ける点でまた弱者である

コレコレに対するウナの批判の回顧

バカはバカだねぇ~

主語としてのバカ(S)と述語としてのバカ(P)は同一ではない

まず第一に指示範囲の違いがある

バカ(S)⊃バカ(P=s)であり、等しくなくよってトートロジーでないことを指摘しなければならない

前者のバカは大きな主語、それはつまり確定したバカだけでなく一見バカのようにみえるものやそこの主体を取り巻く環境でバカと扱われているがバカでないかもしれないものを集約し一面化した語としてバカが言われている(記録された(記録されることが意識された)パロール)

この時、バカ(S)は指示語の機能も保持している

バカの具体的内容はその文脈(配信内容)の前後関係がなければ知ることができない

バカ(S)はバカである様態や振る舞いを示していない

それはバカ(S)を処理するバカ(P)が決定している

可能性のバカから現実態のバカヘ

しかし、具体性を帯びると現実態のバカは既にバカであることが確定しているようにみえる(レトリックの因果性)

例えば、この動画におけるウナちゃんマンのコレコレの批判は

1.内面をアピールしながら外面や体裁がどう見えるかを気にするコレコレを皮肉を使い(モノマネ━カリカチュア)それを指摘する

2.社不=アウトサイダーであるのにも関わらず下と見做してた配信界にいることを正当化しながら(あえて配信を選んだと)下を作りそれを見て安心するところ

選択行為に対する二重性のバカ(ニコ生に参加し配信していることの社会的不利益がありながら大手企業の内定を自慢し自身の価値づけのために使うこと、それを理解しながら行っていても価値づけが無意味であるためにバカとなり理解して行っていないとしても自明にバカである)

このために内定━入社は確定していないがバカは確定している

 

言語機能上のバカと反対の方向性を持つ当人の行為自体のバカ

具体的バカは述語論理に確定的情報に近づくため必然的である

これは言語上(あるいは統語上)の作用と現実が平行関係にありそれらの関連性は偶然発生するが因果の一要素として扱われる

それはバカの反復運動∧作用である

https://www.nicovideo.jp/watch/sm16274011